山が鳴る日がある。
雷でもないし、風でもない。もっと低くて、腹の底に触ってくるような音だ。子どもの頃、村の年寄りはそれを「山が寝返りを打った」と言った。
2026年の8月25日、その音を、わたしは久しぶりに聞いた。
わたしはビノド・タマン、34歳。ラスワ郡の、バスが1日に2本しか来ない村の生まれだ。今はアッパー・トリシュリ1水力発電所の現場で、山に穴を掘る仕事をしている。トンネルの中を、1日に少しずつ、奥へ奥へと進んでいく仕事だ。
この現場に来たのは4年前。誘ってくれたのはカンチャさんだった。
カンチャさんは52歳で、わたしの村の、家が3軒ぶん離れたところに住んでいた人だ。血はつながっていない。でも、わたしの父が死んだ年の冬、薪を割りに来てくれたのはこの人だった。母が寝込んだときに医者を呼びに走ったのも、この人だ。だからわたしにとっては、親戚より親戚に近い。
「ビノド、カタールに行くくらいなら、山に残れ」
そう言われたのを覚えている。村の男は、たいてい中東かマレーシアか韓国へ出稼ぎに行く。行ったきり、体を壊して帰ってくる者もいる。カンチャさんは自分が20年そうやって働いて、腰を痛めて戻ってきた人だった。
「うちの国の水は、うちの国で電気にすればいい。そのほうがましだ」
ましだ、という言い方をする人だった。最高だとか、儲かるとか、そういうことは絶対に言わない。
その日の夕方、わたしとカンチャさんは坑口の外で、甘い茶を飲んでいた。山の上のほうから、あの低い音が降りてきた。
「聞こえたか」
「氷でしょう。夏だし」
「そうだな」
カンチャさんはそう言って、それきり黙った。空になったコップを、いつまでも指で回していた。
飯場は、川からそう遠くない平地にプレハブを並べただけの場所だ。夜になると、鍋の音と、いろんな言葉が混ざる。
その晩、わたしの向かいに座っていたのはペンバだった。ランタン谷の上のほうの村から来た若いやつで、山歩きなら誰よりも速い。耳もいい。ヘリの音を、姿が見える3分前に当てる。
「ビノドさん、今日の音、変じゃなかった?」
「変って、どう」
「雪崩は、上から下にすーっといく音でしょ。今日のは、下から突き上げてくる感じでした」
わたしは笑って、皿の豆スープを米にかけた。ダルバートだ。豆と米と、少しの野菜。この国の人間は、これを1日に2回食べて生きている。手で混ぜて、指先で口に運ぶ。7歳の娘のプジャは、いまだにうまく混ぜられなくて、手首まで汚す。
「ペンバ、山の音を気にしてたら仕事にならん」
そう言ったのはラケーシュだった。インドのビハールから来た測量係で、ノートに何でも書きつける。日付、時刻、掘った距離。字が細かくて、几帳面すぎて、みんなに笑われている。
「書いておくよ。8月25日、17時20分、異音」
「そんなもん書いてどうする」
「あとで役に立つ」
いちばん端で、黙々とおかわりをしていたのがスレシュだ。わたしの村の、ひとつ下の家の子で、わたしとはちょうど一回り違う。去年まで畑にいた。今年から現場に入って、まだ何をしても遅い。
「スレシュ、明日は奥まで行くぞ。ライトの電池、替えとけ」
「はい」
返事だけはいい。あいつが実際に替えたかどうかは、翌日になれば分かる。
その隣で、キランが2皿目に手を伸ばしていた。電気工で、この男はいつも何か食べている。ポケットにも必ず何か入っている。
「キランさん、また菓子」
「非常食だ」
みんなが笑った。
その夜、わたしは妻のサリタに電話をした。電波は1本しか立たない。
「ダサインには帰れそう?」
「たぶんな。プジャに凧を買って帰る」
ダサインは、この国でいちばん大きな祭りだ。9月から10月にかけて、15日間続く。家族が集まって、ごちそうを食べて、子どもは凧を揚げる。出稼ぎに出た男たちも、この時期だけは帰ってくる。
「凧より、あんたが帰ってきなさいよ」
「母さんは」
「明日、町の診療所。朝のバスで行くって」
電話の向こうで、プジャが何か叫んでいた。よく聞き取れなかった。聞き返す前に、電波が切れた。
朝は、いつもどおりだった。
坑口の名簿に名前を書いて、ヘルメットのライトを点けて、切羽まで歩く。その朝、トンネルには300人近くが入っていたはずだ。掘っている場所は1か所ではない。本坑、枝坑、資材置き場、コンクリートを打つ班、測量の班。1本の穴の中に、小さな現場がいくつも散らばっている。
わたしたちが掘っていたのは、水を通すためのトンネルだ。上流で川の水を取って、山の中を通して、下流の発電所へ落とす。山をぐるっと回るより近いし、落差も稼げる。
広さは、ダンプが1台通れるくらい。人が並んで歩けば、6人は横に並べる。だから、中は思ったより広い。広いのに、出口はひとつしかない。掘っている途中のトンネルというのは、そういうものだ。奥は行き止まりで、行けるのは来た道だけ。
その朝、わたしの班は坑口から1200メートルほど奥にいた。もっと奥にいた班もあったし、手前にいた班もあった。
ラケーシュが腕時計をのぞいて、ノートに何か書いた。あの男は、掘った距離と時刻を1時間おきに記録する。
「8時35分。今日は進みがいい」
「あんたが数えてるだけだろ」
スレシュがそう言って、みんなが笑った。
ふと、何かを感じた。
足の裏が、むずがゆいような。虫が靴の下を通ったような、そういう感じだ。
ミシ、と鳴った。
木ではなく、岩がきしむ音だ。奥のほう、まだ吹き付けの終わっていない裸の岩肌から聞こえた。
「止まって」
気づいたのは、やっぱりペンバだった。削岩機の音が切れて、トンネルが静かになった。
静かになったから、聞こえた。
唸っていた。
どこから、とは言えない。壁からも、床からも、天井からも、同じ低い音が出ている。遠くをトラックが走り続けているような音だった。
それがだんだん太くなって、ゴ、と腹に来た。
足場に積んだ鉄筋が、カラ、カラ、と鳴りはじめた。天井から砂が落ちてきた。細い滝みたいに、ライトの光の中を斜めに横切っていった。
「地震だ」
誰かがそう言って、全員がそう思った。この国では地震は珍しくない。2015年を知っている人間なら、なおさら体が先に動く。わたしたちは壁際にしゃがんで、頭を抱えた。
揺れそのものは、たいしたことはなかった。20秒か、30秒か。ヘルメットに落ちてくる砂の量も、いつもの落石とそう変わらない。
顔を上げたとき、みんな笑っていた。安心したときの、間の抜けた笑い方だ。
それは地震ではなかった。
あとで知ったことだ。そのとき、国境の検問所から15キロほど離れた山の上で、氷河が落ちていた。
ランタン・リルンの北側。標高5200メートルのあたりに張り付いていた氷と岩の塊が、まとめて剥がれ落ちた。広さにして0.2平方キロ。落差は1200メートル。それは、わたしたちが坑口から掘り進んだのとちょうど同じ長さを、真下に落ちた。
落ちる速さと、岩にぶつかる摩擦で、氷は落ちながら砕け、融けたのだという。
あの震動は、地面が動いた音ではなく、山が壊れた音だった。
地震計はそれを、マグニチュード5.2として世界中で記録していた。記録した人たちも、しばらくは地震だと思っていたそうだ。
専門家が間違えるものを、わたしたちが分かるはずもなかった。
「終わったな」
カンチャさんが立ち上がって、膝の砂を払った。
そのとき、風が変わった。
奥から手前へ流れていた空気が、逆になった。手前から、生ぬるい風が押し寄せてきた。土の匂いと、冷たい水の匂いが混ざっていた。
カンチャさんの手が止まった。
「出ろ!」
誰よりも早かった。理屈ではなかったと思う。20年、出稼ぎ先の坑道で風を読んできた人の、体のほうが先に動いた。
わたしたちは走った。1200メートルは、走れば10分もかからない。でも、その10分がなかった。
あとで数字を知った。国境のギロン港の検問所は、揺れの7分後に濁流に消えていた。監視カメラがその瞬間を撮っていた。土砂まじりの水の速さは、時速190キロ近く。そこから下流のここまでも、あっという間だったはずだ。
逃げる、という言葉が意味を持たない速さだ。
200メートルほど走ったところで、坑口の方向から音が来た。
ゴオオオ、という、低くて太くて終わらない音。前の日の夕方に聞いたあの音を、100倍にしたような。そこに、ガン、ゴン、と硬いものがぶつかる音が混ざっていた。鉄の足場か、資材か、たぶん両方だ。
「上だ、上に登れ!」
カンチャさんが指したのは、右の壁にぽっかり空いた四角い穴だった。
待避坑という。掘りかけのトンネルには、200メートルおきくらいに、こういう横穴が掘ってある。ダンプがすれ違うための場所であり、資材を置く場所でもある。本坑から横に切り込んだ、行き止まりの小部屋だ。
幅は5メートル、奥行きは8メートルくらい。天井は本坑と同じ高さだから、大人が立って歩ける。床は本坑より1メートルほど高く作ってある。水はけのためだ。
その1メートルが、わたしたちを生かした。
入口の段差に足をかけて、飛び上がった。わたしはスレシュの腕をつかんで、上へ押し上げた。ペンバは自分で跳ねた。ラケーシュはノートを胸に抱えたまま、腹から転がるように上がってきた。
水が来たのは、その直後だ。
水というより、泥だった。冷たくて、重くて、木や鉄を丸ごと運んでいた。本坑を横切っていく泥の壁が、ライトの光に一瞬だけ映った。
横穴にも、当然入ってきた。
入口から泥が吹き込んで、胸のあたりを叩かれた。息が止まって、口の中が砂でいっぱいになった。
スレシュが足を取られた。押し上げたばかりの体が、泥に押されてそのまま倒れて、頭まで見えなくなった。
わたしは腕を伸ばして、作業着の襟をつかんだ。引き上げると、口から泥を吐いて、咳き込んで、また吐いた。
わたしは奥へ逃げて、壁に爪を立てた。足首まで来て、膝まで来た。
そこで止まった。止まってくれた。
本坑のほうは、一時はずっと高いところまで満ちていたはずだ。横穴は行き止まりだから、押し込まれた空気が逃げ場をなくして、水を押し返した。コップを逆さにして水に沈めても、中まで水が入らないのと同じことだ。
あとで考えれば、そういう理屈になる。そのときは何も考えていない。ただ、壁を抱いていた。
床が本坑より1メートル高かったこと、奥が行き止まりだったこと。その2つだけで、膝までで済んだ。
水の勢いが落ちて、あたりが静かになったとき、あちこちで光が揺れていた。
幸い、ライトは全部無事だった。
ヘルメットは顎紐で留めてあるし、坑内で使うものだから、濡れるのは前提で作られている。泥をかぶって暗くなったものも、レンズを袖で拭けば戻った。
12の光が、それぞれ別の方向を照らしていた。壁の湿った岩肌。浮かんだ木片。泥に膝までつかって立っている、見慣れた顔。
顔が見えたことに、わたしは少し安心した。
「点呼」
カンチャさんの声がした。生きていた。
ひとりずつ、名前を言った。ビノド。カンチャ。ペンバ。ラケーシュ。スレシュ。キラン。ほかに6人。
12人。この横穴にいるのは、12人だけだった。
朝、同じトンネルに入ったのは300人近い。手前の班は坑口に近かったぶん、逃げられたかもしれない。奥の班は、水がそこまで届かなかったかもしれない。ほかの待避坑に、わたしたちと同じように登った連中がいるかもしれない。
かもしれない、しか言えなかった。
入口には、泥と岩と折れた木が、天井近くまで積み上がっていた。壁になっていた。そのいちばん上に、腕1本ぶんほどの隙間だけが残っていた。
わたしはそこに顔を寄せて、本坑に向かって叫んだ。返ってきたのは、水の落ちる音だけだった。
誰も、そのことを口に出さなかった。
そこからしばらくの記憶は、ばらばらだ。
順番が思い出せない。誰かが名前を呼び続けていた。誰かが入口の泥をかき出そうとして、カンチャさんに止められていた。わたしは何度もあの隙間から叫んで、そのたびに喉を痛めた。手が震えていて、それが寒さなのか興奮なのか分からなかった。
頭のどこかが、まだ走っていた。体は止まっているのに、頭だけが坑口に向かって走り続けている。そういう感じだった。
それを止めたのも、カンチャさんだった。
「ライトを消せ。全部だ」
誰も動かなかった。言っている意味は分かる。分かるが、体が言うことを聞かない。
「1個で10時間だ。12個とも点けっぱなしなら、今日の夜には終わる」
言われて、はじめて計算した。
10時間。しかも今朝から点けている。残っているのは、もっと少ない。
「1個ずつ使えば、何日かは持つ。何日いるか分からんなら、そうするしかない」
「暗いですよ」
スレシュが言った。声が細かった。
「暗いのと、何も無いのは違う」
ペンバが自分のを消した。キランが消した。ひとつずつ、光が減っていった。最後に残った1つを、カンチャさんが手に持って、それも消した。
真っ暗になった。
目を開けても閉じても同じだ、というのは、そういうことかと思った。まぶたの裏に、さっきまで見えていた壁の形が、しばらく残っていた。それも消えた。
誰かが荒く息をしていた。誰かが泥水を蹴る音がした。
そのとき、暗闇のなかに、緑色の小さな光が浮かんだ。
ラケーシュの腕時計だった。安物の、針が光るやつだ。電池ではなく、光を溜めて光る針だから、こういうときだけは高いものより役に立つ。彼は泥をぬぐって、しばらくそれを見ていた。
「9時20分」
「……は?」
わたしは聞き返した。意味が入ってこなかった。
「9時20分だ。揺れたのが8時37分だから、40分ちょっとしか経ってない」
返事をする者はいなかった。
1日は経った気がしていた。少なくとも半日は。それが40分だと言われても、体がついてこない。あれだけのことが起きて、あれだけ叫んで、まだ昼にもなっていないという事実が、うまく飲み込めなかった。
「嘘だろ」
スレシュがそう言って、それきり黙った。
時間の感覚というのは、こういうときに真っ先に壊れるらしい。ラケーシュは、それを分かっていたのだと思う。
「10分ごとに読む」
彼はそう言って、本当にそうした。
「9時30分」
そう読んだところで、カンチャさんが動いた。
カチ、と音がして、光が1つ点いた。ヘルメットを手に持って、正面に向けている。
「5分だ。中を見る」
暗いところで待つなら、ここがどういう場所なのか知っていなければならない。それだけのことだった。
ラケーシュは黙って、腕時計の文字盤をその光にかざした。光を吸わせておかないと、針はじきに見えなくなる。それからは、ライトが点くたびに、彼は必ずそうした。
光が壁をなめていった。
幅は、腕を広げて3人ぶん。奥行きは8メートルほどで、光の届く先が行き止まりの岩だった。天井は手を伸ばしても届かない。待避坑だから、重機がそのまま入れる寸法で掘ってある。
床は、入口のほうがわずかに低い。水を逃がすための勾配だ。おかげで、いちばん奥の2メートルほどには泥が来ていなかった。
濡れていない床がある。それだけのことが、やけに大きく見えた。
壁際に、木のパレットが2枚。その上にセメント袋が積んであった。下のほうは水を吸って固まりかけていた。曲がった鉄筋が束で転がっていて、吹き付け用の袋が何枚か。
ペンバが天井を照らして、水の染み出している場所を見つけた。1か所だけ、細く垂れている。指につけて舐めると、土の味はしたが、泥ではなかった。
「ここだ。ヘルメットを置け」
それが、水を溜める場所になった。
「上等だ」
カンチャさんはそう言った。上等なわけがないのに、そう言った。
5分きっかりで、ライトは消えた。
暗くなってから、決めごとを作った。
セメント袋を下ろして、パレット2枚を奥の乾いた床に敷く。1枚に2人、座れるのは4人だ。それ以外の場所は、乾いてはいても岩の床だから、直に座っていると尻から熱が抜けていく。長くは座っていられない。
「1時間で替われ。若いのと、濡れてるやつを先だ」
立って過ごす者と、パレットに腰かける者を、1時間ごとに回す。天井までは3メートル以上あるから、立つのは楽だ。楽だが、ずっと立っていると膝が笑ってくる。膝の下は泥水だから、しゃがむこともできない。
1時間で替われ、というのはそういうことだった。
それから、便所の場所が決まった。
入口にいちばん近い、床のいちばん低いところ。入口寄りには誰も行かない、あそこの水には絶対に触らない。それだけを決めた。
「手で顔を触るな。口も触るな」
カンチャさんは、そこだけは二度言った。洗う水はない。腹を壊せば、それで終わる。
次に、叫ぶのをやめさせられた。
「声は要らん。鉄で叩け」
叫んでも岩は抜けない。喉が枯れるだけだ。鉄筋で天井を叩けば、そのほうが遠くまで届く。1時間ごとに3回、それを誰かがやる。それが仕事になった。
けが人は2人いた。
1人はダワという、コンクリート班の男だ。名前だけは知っていた。段差を上がるときに脛を切って、そこそこ深く裂けていた。ラケーシュがシャツの裾を裂いて縛った。
もう1人はキランで、右手の甲の皮がめくれていた。何にやられたのか、本人も覚えていない。
血は止まった。あとは、汚れた水の中で腫れてこないことを祈るしかなかった。
落ち着いてくると、喉が渇いてきた。
夢中でいるあいだは何も感じない。まわりが見えるようになってから、渇きが来た。
足元には水がいくらでもある。飲めるわけがない。土と、木と、山から落ちてきた何かが、全部混ざった水だ。
天井の滴を溜めたヘルメットを、順番に回した。1人が2口ずつ。それ以上は溜まらない。
腹も、少し空いてきた。
不思議なもので、思い出すのは特別なものではない。うちのダルバートだ。サリタの作る、豆の汁と飯だけの、毎日食べているあれだ。
皿の縁が少し欠けているところまで、はっきり浮かんだ。それが浮かんだ瞬間に、家のことを考えるのをやめた。
10時を過ぎたころ、スレシュが震えはじめた。
水は膝までしかない。それでも、体は冷えていく。
全員、胸まで泥をかぶっている。そのうえスレシュは一度倒れて、頭まで浸かった。作業着も靴も、下着まで水を吸っている。着替えなんてあるわけがない。
山から落ちてきた水だ。氷が融けた水が混ざっている。手を入れていると、指の先から感覚が抜けていく。
濡れた服を着たまま、膝から下をその中に置いていれば、体温は落ちる。あとで聞いた話だが、そういうものらしい。わたしにはただ、スレシュの歯が鳴る音がうるさかった。
「奥に上げろ。乾いてるところだ」
カンチャさんが順番を飛ばして、スレシュをパレットに座らせた。誰も文句を言わなかった。
「靴を脱げ。全員だ。足を出して乾かせ」
言われたときは、そんなことをしている場合かと思った。
「10時30分」
「10時40分」
11時を過ぎると、しゃべる者がいなくなった。ラケーシュの読み上げだけが続いた。
「11時30分」
その10分後だった。
ミシ、と岩が鳴った。
全員が動きを止めた。
あの唸りが、また来た。今度はずっと小さい。天井から砂がぱらぱらと落ちて、足元の泥水の表面が、細かく震えた。
誰も声を出さなかった。出せなかった。
10秒ほどで収まった。
「11時40分」
ラケーシュの声が、少しかすれていた。
「……朝から、3時間だ」
3時間で、山はもう1度崩れた。あとで記録を見ると、2度目の崩落はマグニチュード4.2。1度目で緩んだ斜面が、追いかけるように落ちたのだ。
今度は、水は来なかった。入口の泥の壁が天井近くまで積み上がっていて、それを越えるほどの水ではなかったからだと思う。
助かった理由が、閉じ込められた理由と同じだった。
その揺れのあと、ダワが動いた。
「掘りましょう。入口の泥、押せば抜ける」
本気だった。脛を縛ったまま、鉄筋を1本つかんでいた。
「やめろ」
「じっとしてても助かりませんよ」
「あの泥が栓だ」
カンチャさんの声が、はじめて硬くなった。
「向こうに水がどれだけ溜まってるか、お前は知ってるか。抜いた穴から入ってきたら、ここは10分で終わる」
ダワは鉄筋を握ったまま、しばらく動かなかった。それから、それを床に置いた。置く音が、やけに大きく響いた。
「……すみません」
「謝るな。掘りたいのは全員だ」
しばらく、天井から落ちる滴の音だけが続いた。
「もう1回落ちたら、どうなりますか」
スレシュが聞いた。誰も答えなかった。
カンチャさんだけが、しばらくしてから言った。
「落ちたら落ちたときだ。今は生きてる」
ライトは12個あったが、12個ぶんの時間があるわけではない。
朝から点けていたぶん、どれも3割ほど減っている。カンチャさんは、点ける順番を決めた。いちばん弱っているものから使い切って、元気なものを後ろに回す。1回に点けるのは1つだけ、時間は5分。
「食い物と同じだ。傷みやすいやつから食え」
そういう言い方をする人だった。
最初に切れたのは、スレシュのものだった。点けて2分で赤くなって、それきり点かなくなった。
「替えてないだろう」
「……すみません」
誰も責めなかった。責めても、電池は戻らない。カンチャさんは、その1つをパレットの端に置いた。捨てなかった。
ラケーシュの腕時計が止まったのは、その日の昼過ぎだった。
「14時10分」と読み上げたあと、次が来なかった。
「ラケーシュ?」
返事まで、少し間があった。
「……すまない。止まった。時計に水が入ったんだと思う」
謝ることではない。誰もそう思っていない。それでも彼は、もう1度小さく「すまない」と言った。
緑の光も、じきに消えた。
「呼吸でどうだ」
時計がなくなってから、ラケーシュが言った。1分に15回として、900回で1時間になる、と。
やってみた。1時間もたなかった。
声に出して数えれば喉が渇く。渇いた喉で数えれば、それだけで疲れる。黙って数えれば、途中で自分が何をしているのか分からなくなる。おまけに、数えていると息が浅くなった。
「やめろ」
カンチャさんが止めた。「息は数えるもんじゃない」
それで、時間を数えるのはあきらめた。
かわりに、眠った回数を数えた。全員が一度眠ったら1日、という、ずいぶん雑な数え方だ。眠るというより、意識が切れて戻る、という感じだったが、ほかに数えるものがなかった。
鉄で天井を叩くのも、1時間ごとではなくなった。誰かが起きるたびに、3回。それだけになった。
暗闇のなかで、ときどき紙のこすれる音がした。ラケーシュが何かしている音だ。誰も聞かなかったし、彼も言わなかった。
水は、足首まで下がっていた。
泥に吸われたのか、床の割れ目から抜けたのか、少しずつ減っていた。ありがたいはずのことだったのに、それに気づいたとき、わたしは別のことを思った。減るということは、外の水も引いたということだ。引いた水は、どこかへ行った。行った先に何があったかは、考えないようにした。
靴を脱げと言われた意味は、2日目に分かった。
1日目にずっと水の中に立っていた者の足は、指のあいだが白くふやけて、皮が浮いていた。触ると痛い。歩くと、もっと痛い。ダワは脛の傷より、そっちで唸っていた。
それからは、順番が回ってくるたびに靴と靴下を脱いで、パレットの上で足を出した。乾かすというより、水から離すだけだ。それでも、ずいぶん違った。
空気が重くなってきたのも、そのあたりからだ。
頭の奥が、鈍く痛む。息が、いつもより深くなる。何もしていないのに、だるい。
ペンバが、セメント袋の口から糸を1本抜いた。縫い止めてある、あの丈夫な糸だ。
それを持って入口まで行って、泥の壁をよじ登り、いちばん上のあの隙間の際に垂らした。カンチャさんが5分のうちの1分を割いて、そこを照らした。
糸の先が、わずかに揺れていた。震えている、という程度だ。それでも、揺れる向きは決まっていた。
「空気が動いてます」
「どっちからだ」
「外からです。こっちに、少し」
本坑の先も、どこかで完全には塞がっていなかった。その先のどこかの隙間から、あの細い口を通って、空気が入っていた。あとで思えば、それが最大の運だった。
カンチャさんは、それを聞いてから、規則をひとつ増やした。
「動くな。話すな。用があるときだけ動け」
暇つぶしのしゃべりまで禁じられた。息をするぶんが減れば、空気が長く持つ。理屈は分かる。ただ、そのおかげで、暗闇はもっと暗くなった。
食べ物は、キランのポケットに入っていたビスケットが1袋だけだった。飯場でみんなに笑われた、あの非常食だ。
12人で分けた。1人あたり、指の先ほどの大きさになった。
「言ったろ。非常食だって」
キランがそう言って、誰かが笑った。笑い声を聞いたのは、それが最後だった気がする。
2度目に眠って起きたとき、ダワが「音がした」と言った。
全員が起きた。息を止めて、天井を見た。見えるわけがないのに、全員が同じ方向を向いていた。
10分か、20分か、そうしていた。何も来なかった。
「気のせいですね」
ダワが、自分で言った。誰も何も言わなかった。
それから、同じことが何度も起きた。水の落ちる音が人の声に聞こえる。岩の鳴る音が足音に聞こえる。真っ暗なところに長くいると、耳が勝手に音を作るらしい。
そのたびに全員が起きて、そのたびに何も来なくて、そのたびに少しずつ削られた。
スレシュが泣いたのは、その日のうちだ。
声を出したわけではない。暗いから、はじめは気づかなかった。息の継ぎ方がおかしいので、それで分かった。
「来ますよね」
そう言った。「上から、来ますよね」
答えられる人間は、いなかった。
「来る」
カンチャさんだけが言った。
「なんで分かるんですか」
「分からん」
それで会話は終わった。ひどい答えだと思う。ただ、「分からん」と言われたことで、わたしは少し楽になった。嘘をつかない人がここにいる、というだけで足りた。
泣いたのはスレシュだけではない。わたしも、たぶん泣いた。暗いというのは、そういうときには都合がいい。
それから、カンチャさんは村の話をはじめた。動くな話すなと言った本人が、である。誰の家の牛が逃げたとか、誰が誰に惚れているとか、そういうどうでもいい話だ。どうでもいい話ほど、よく効いた。
ライトは、電池より先に、別のところから壊れていった。
泥水をかぶったせいで、スイッチの接点が錆びてきたのだ。昨日まで点いたものが、押しても点かない。振ると一瞬だけ光って、それきりになる。
1日に3つか4つずつ、ライトは死んでいった。パレットの端に並ぶヘルメットの列が、5分ごとの明かりのなかで、少しずつ長くなっていく。それを見ているのが、いちばんつらかった。
3度目に眠って起きたとき、残りは3つになっていた。
カンチャさんは、そのうちの1つを自分のポケットに入れた。
「これは使わん」
「いつ使うんですか」
スレシュが聞いた。
「上から人が来たときだ。こっちの居場所を見せる」
それが正しかったのかどうかは、今も分からない。ただ、「まだ1つ残してある」と思えたことに、わたしたちはずいぶん助けられた。
わたしは、プジャの声を思い出そうとしていた。電話の向こうで叫んでいた、聞き取れなかったあの声を。
何度やっても、思い出せなかった。
音がしたのは、4回目に眠って起きたあとだった。
コン。コン。コン。
3回。天井のほうから。
誰も動かなかった。もう何度も裏切られている。耳が作った音だと、全員が思った。
コン。コン。コン。
もう1度、同じ間隔で来た。
「今のは違う」
ペンバだった。この男の耳を、わたしたちは疑わない。
「返せ! 叩き返して!」
わたしは足元を探って、鉄の切れ端をつかんだ。天井の岩に、3回叩いた。
コン。コン。コン。
返ってきた。今度は、はっきりと。
誰かが声を上げた。誰かが座り込んだ。ラケーシュはノートを胸に押しつけていた。
カンチャさんが、ポケットからライトを出した。
親指でスイッチを押すと、白い光がまっすぐ天井に当たった。とっておいた1つだ。
「見えるか、上」
返事はない。岩を隔てて、こちらの光が届くはずもない。それでも彼は、天井の一点を照らし続けていた。
あとで知ったことだが、わたしたちの待避坑は、たまたま谷側に張り出した区間にあった。坑口から1200メートル奥でも、山の被りは40メートルほどしかない。トンネルは山の中心を貫いているわけではなく、谷の壁沿いを縫うように掘られているからだ。
坑口から泥をかき出すやり方では間に合わない。そう判断した人たちが、斜面の上から細い穴を落としてきた。
やがて、天井の一点から、白い光が差した。
直径にして、10センチあるかどうか。手を入れれば、ふさがってしまうくらいの穴だ。
それでも、外の光だった。
4日ぶりの外の光は、まぶしいというより、痛かった。目の奥がじんとして、涙が出た。全員が、その1点を見上げていた。ずっと見ていた。口を開く者はいなかった。
穴からホースが降りてきた。空気が送られてきた。吹き出す音がして、それを吸った瞬間、頭の奥の痛みが薄くなった。自分たちの空気がどれだけ悪かったのか、そこではじめて分かった。
次に、細いロープにくくられた水のボトルと、乾いた食べ物が降りてきた。
「一気に飲むな。一口ずつだ」
カンチャさんが言って、キランが「そんな~」と言った。それでも、みんな一口ずつにした。
紙も一緒に降りてきた。ボールペンが結びつけてあった。
「人数と、名前を書け」
暗いなかで、それを書けるのはラケーシュしかいなかった。カンチャさんが残りのライトを点けて、5分と言わずに、そのまま点けさせた。もう惜しむ理由がなかった。
彼は自分のノートを開いた。水を吸ってふやけて、ページが波打っていた。それでも、字は読めた。
8月26日、8時35分、掘進の記録。その次の行から、鉛筆の走り書きになる。9時20分。10分ごとの読み上げ。11時40分の2度目の揺れ。時計が止まった14時10分。そこから先は、日付のかわりに「眠った回数」が書いてあった。
あの男は、暗闇のなかでも書いていたのだ。
ラケーシュは、ノートを見ながら紙に写した。
12人の名前。全員生存。負傷2名、うち1名は歩行不能。それから、自分たちが坑口から何メートル奥の、どちら側の待避坑にいるか。
その数字を書いたとき、彼は少し手を止めた。
「これがいちばん大事だ。ほかの待避坑にも、いるかもしれない」
紙を上げたあと、カンチャさんが小さく笑った。
「几帳面も、たまには役に立つな」
「たまには、じゃないですよ」
ラケーシュはそう言って、はじめて泣いた。
穴が人の入る大きさになるまで、さらに時間がかかった。
上では、82人が交代で24時間掘り続けていたと、あとから聞いた。ヘリが16機飛び、2万人を超える治安要員が動いていたとも。
そういう数字は、中にいるあいだは何ひとつ知らない。知っているのは、上に人がいる、ということだけだ。それだけで、人はけっこう持つ。
穴が広がる前に、布が何枚か降りてきた。目を隠せ、と書いた紙が一緒に入っていた。
4日暗いところにいた目で、いきなり空を見るとやられるらしい。わたしたちは笑って、それでも言われたとおりに布を巻いた。
引き上げられる順番を決めるとき、カンチャさんは当然のような顔で言った。
「けが人から。次は若い順だ」
ダワが担がれ、キランが続き、それからスレシュが上がっていった。スレシュは首を振ったが、カンチャさんに睨まれて黙った。
わたしは10番目だった。ハーネスを体に回されて、ゆっくり引き上げられていく途中、布の隙間から上を見ていた。穴が広がって、空が丸く見えた。灰色の、雨の降りそうな空だった。
地面に足がついた瞬間、膝が笑って立てなかった。誰かがわたしを抱えて、毛布をかけた。顔は見えなかった。ただ、その人の手がとても温かかったのを覚えている。
最後に上がってきたのはカンチャさんだった。泥だらけで、目だけが妙にはっきりしていた。ポケットには、消えたライトが入ったままだった。
「ビノド」
「はい」
「山の音、前の日に聞こえてたな」
「聞こえてました」
「覚えとけ。次は、逃げろ」
そう言って、担架に乗せられていった。
医療テントでは、まず足を見られた。靴下を切って外されて、白くふやけた指を、若い医者が長いこと診ていた。それから、腕に針を刺されて、温かい液を入れられた。
横になって、天井の布を見ていた。生きて帰った、と思った。そう思ったのは、あのときが最後だった。
テントを出て、はじめて外を見た。
飯場が、無かった。
プレハブが並んでいた平地は、丸ごと川になっていた。川べりだった場所には、家の壁だったものと、鉄の板と、木が、区別のつかない形で積み上がっていた。毎晩、鍋を囲んで座っていた場所が、どこだったのか分からなかった。
その朝、あの中には300人近くがいた。
その日の夕方、事務所の壁に貼られた紙を見た。名前が並んで、横に印がついている。無事、負傷、不明。
不明の列が、圧倒的に長かった。
わたしは自分の指で、その列をなぞろうとして、途中でやめた。なぞりきれる長さではなかった。
坑内にいた者だけではない。坑口の外で資材を下ろしていた班、川べりの生コン工場、宿舎で夜勤明けに寝ていた者。水が数分で来る場所に、あの朝、たくさんの人間がいた。
飯場でわたしの隣に座っていた男の名前が、不明の列にあった。名前の読み方すら、わたしは正しく知らなかった。
穴の底にいたあいだに、わたしたちは12人全員の名前を紙に書いて、上に送っていた。全員生存、と。
あの4日間、わたしたちは自分たちの12人を数えていた。数えて、確かめて、揃っていることに安心していた。同じ4日間に、外ではこの紙が長くなり続けていたのだ。
知らなかったことを、責める相手がいない。それがいちばん、こたえた。
医療テントの外に、人が立っていた。
助かった者の顔を見に来た家族だ。担架が運ばれるたびに、みんな身を乗り出して、顔をのぞきこむ。そして、離れていく。
ひとり、わたしの腕をつかんだ女がいた。
「坑内にいましたか」
「いました」
「うちの人も坑内でした。名前は」
知らない名前だった。首を横に振るしかなかった。
その人は、ありがとうございますと言って、次の担架のほうへ行った。礼を言われる理由が、わたしには何ひとつなかった。
村へ戻る道は、途中まで無かった。
橋も道も、何十キロにわたって流されていた。歩ける区間は歩いて、ヘリに乗れるところは乗せてもらった。
上から見ると、川がまるで別のものになっていた。谷が広がって、茶色い帯が山を貫いていた。木も、畑も、家も、何も残っていない。あそこに集落があった、という場所には、何も無かった。
あの水は、わたしたちのトンネルを塞いだあと、下流へ行った。行った先に何があったかを考えないようにしていた、その先が、これだった。
ヘリの中では、エンジンの音しかしなかった。
わたしの村は、川から少し高いところにある。だから残った。
ただそれだけの理由で、うちは残った。
サリタは、家の前に立っていた。わたしを見て、口を押さえて、それから怒ったような顔になって、何も言わなかった。
プジャは、しばらく黙ってわたしを見ていた。それから走ってきて、腹に頭をぶつけてきた。
「電話のとき、なんて言ってた」
わたしがそう聞くと、娘は少し考えて、こう言った。
「はやくかえってきて、って言った」
そうか、と答えるだけで精一杯だった。
家の中に、母がいなかった。
「バスに乗ったの」
サリタが言った。それだけで分かった。
26日の朝、母は町の診療所へ行くために、いつもの時間のバスに乗った。あのバスは、川沿いの道を下っていく。橋を2つ渡る。
橋は、2つとも無い。道も無い。バスも見つかっていない。
わたしは4日間、暗いところで、家族は無事だと思い込むために娘の声を思い出そうとしていた。思い出せなかった声のことばかり考えていた。
母のことは、一度も考えなかった。
診療所へ行く日を、電話で聞いていたのに。
村では、7人が戻っていない。
朝の8時半だ。みんな外にいた。川べりの畑にいた者、洗濯に下りていた女たち、吊り橋を渡っていた者、道路工事の現場に出ていた若い者。
家の中にいたなら、助かった。外に出ていたら、助からなかった。それだけの差だった。
学校は高台にあったから、子どもは全員無事だ。ただ、迎えに来る親が来なかった子が、2人いる。上の家のミナは9歳で、あの日から祖母の家にいる。わたしを見ると、いつも父親のことを聞く。同じ現場にいた人だから、と。
わたしはその人と、一度も話したことがなかった。
カンチャさんの弟の家は、川に近い段にあった。家ごと無くなった。弟と、その妻が戻っていない。
カンチャさんは病院から戻ってきて、腰にコルセットを巻いて、家の前の石に座っている。
坑内では、あれだけしゃべった人が、村ではほとんどしゃべらない。
一度だけ、こう言った。
「わしは風が読めた。トンネルの中の風だ。外の風は読めん」
それきり、その話はしていない。
集会所の壁に、紙が貼ってある。
戻っていない人の名前と、その人が26日の朝どこにいたか。分かるかぎり書いてある。誰かが見つかると、名前の横に印がつく。
印は、めったにつかない。
ごちそうを作る家がある。作らない家がある。作らない家の前を通るとき、みんな黙って足を早める。悪気ではない。何を言えばいいのか、誰も知らないだけだ。
わたしは、生きて帰った男だ。村ではそう見られている。
ありがたい話のはずなのに、目を合わせられない相手が増えた。
捜索は、少しずつ小さくなっている。
ひと月が過ぎたころから、ヘリの音が減った。川べりにいた兵隊たちが、ひとつの班ずつ引き揚げていった。トンネルの中にはもう誰もいないと確かめられた、と聞いた。重機は、捜すためではなく、道を戻すために動くようになった。
役所は、捜索の打ち切りを考えている、と言う。
責める気にはなれない。あの人たちが泥の中で何をしてくれたか、わたしは誰よりも知っている。交代で掘り続けてくれた穴を、わたしは下から見上げていた。
それでも、打ち切りという言葉は、川べりまでは届かない。
家族は、今も歩いている。犬もいない。重機もない。棒を1本持って、下流の砂州をひとつずつ突いていく。国境の向こうでも探していると聞いた。水は国境なんて見ないから、当然そうなる。
見つかっても、誰なのか分からないことがある。泥の中にずっとあったものは、顔では確かめられなくなるらしい。
警察は、見つかった人ひとりずつに番号をつけて、写真を撮っている。着ていた服、腕輪、刺青。そういうものも、番号と一緒に書き留めていく。
その写真が、カトマンズの病院の外の壁に貼られている。警察のウェブサイトにも並んでいる。村の者は、電波が1本立つ場所に集まって、小さな画面をのぞきこむ。1枚ずつ、指で送っていく。昼間は見る人が多すぎて、画面がなかなか動かない。
遠い国の、知らない人たちも、同じ写真を見ていると聞いた。
向こうの夜、仕事を終えてから、何時間も画面を送っているのだという。刺青の形、鼻飾りの位置、泥をかぶった服の色。見分けのつきそうなものを1つずつ書き出して、探している家族に届くよう、あちこちに流してくれている。
会ったこともない誰かのために、である。
その話を聞いたとき、わたしはうまく礼を言う相手が見つからなかった。ただ、この写真を1枚ずつ送っているのが、わたしたちだけではないと知った。それだけで、指が少し動くようになった。
わたしも、郡の警察署へ行った。
腕から血を採られた。行方の分からない人の親か子の血なら、見つかった人の歯や骨と、つながりを照らし合わせられるのだという。
結果が出るまで、何か月もかかると聞いた。名前の分からないまま、番号をつけて先に土に埋められた人も大勢いる。あとで分かったときに掘り起こして返せるよう、埋めた場所は記録してあるそうだ。
警察署へ行く朝、サリタが布切れを1枚持たせてくれた。
母があの朝着ていた服は、サリタが縫ったものだった。そのとき余った布を、しまっておいたのだという。
写真の中の泥にまみれた服と、手の中の布を、わたしは長いこと見比べた。似た色は、いくつもあった。同じ柄は、まだ無い。
見つからなければ、もっと困ったことになる。
名前が不明の列にあるかぎり、その人は死んだことにならない。
遺体が見つからなければ、村の役場では死亡の届けを受け取れない。届けがなければ、葬式の費用も、支援の書類も通らない。集会所で、役所の人が申し訳なさそうにそう話していた。
法律では、12年待てば死んだものとみなされる。災害なら、裁判所に申し立てる道もある。ただ、そのためには郡の裁判所まで行って、あの朝その人がどこにいたかを証明しなければならない。橋のない谷から、である。
バスに乗っていた人なら3年だ、と役所の人は言った。母の場合は、それに当たるのかどうか、誰にも分からなかった。
家を流されて、家族を流されて、それでも書類の上では、まだ誰も死んでいない家がある。
事務所の壁の紙では、無事と負傷の列のどこかに、わたしたち12人の名前も入っている。
坑口の近くから走って逃げきった者もいた。別の場所から助け出された者もいた。4日間、あの暗闇でわたしたちが「かもしれない」としか言えなかった人たちの何人かは、本当に生きていた。
運がよかった、と言われる。そうなのだと思う。待避坑の床が1メートル高かったこと。入口の上に、腕1本ぶんの隙間が残ったこと。山の被りが、たまたま40メートルしかなかったこと。
ただ、運だけで片づけていいのかは、今も分からない。
風を読んだカンチャさんがいた。糸1本で空気の流れを見つけたペンバがいた。暗闇でも書き続けたラケーシュがいた。ポケットにビスケットを入れていたキランがいた。上では、顔も知らない82人が、交代で掘り続けてくれた。
たくさんの人の手が、あの穴の底までつながっていた。そのどれか1つが欠けていても、わたしは今ここにいない。
あの横穴を出た12人は、今、それぞれの場所にいる。
ペンバは、ランタン谷の村に帰った。彼の村は谷の高いところにあったから残った。ただ、下の集落に住んでいた叔父の一家が、戻っていない。あの耳のいい男が、前の日に音を聞いて、変だと言っていた。言ったのに、誰にも届かなかった。
ラケーシュは、ビハールに帰らなかった。
あの男は今、役所の建物の隅に机をもらって、名簿を作っている。誰がどの班で、あの朝どこにいたか。飯場で誰の隣に寝ていたか。会社の記録と、生き残った者の話を突き合わせて、1人ずつ書いていく。
捜索が小さくなってから、あの机の前の列は、かえって長くなった。あの朝、自分の家族がそこにいたと誰かに書いてもらわなければ、裁判所へ行くこともできない人たちがいる。
字が細かくて、几帳面すぎて、みんなに笑われていた。今は誰も笑わない。
「終わりますか」と聞いたら、こう答えた。
「捜すのは、いつか終わる。書くのは終わらない。書いた名前は、消えない」
スレシュは母親に電話ができた。畑に戻るか、また現場に出るかを迷っている。ダワは脛の傷が治りきらないまま、下流で家族を探して歩いている。キランはまだ何か食べている。あの男が食べていると、少しだけ、前と同じ気がする。
わたしは、週に2日、川を下る。
母の乗ったバスの道を、歩いてたどる。1つめの橋があったあたりから、2つめの橋があったあたりへ。そこから、さらに下へ。窓枠のような鉄を見つけるたびに、足が止まる。止まって、また歩く。
カンチャさんは、一度だけついてきた。腰が痛むはずなのに、何も言わずに半日歩いた。帰り道で、川のほうを見て、「風がないな」とだけ言った。
読めない、とは言わなかった。
買った凧は、袋のままだ。
プジャに渡していない。渡す日を決めたわけでもない。ただ、渡せていない。
祭りは、来月だ。それまでに何人見つかるのか、誰も口にしない。
夜になると、山が鳴る。
昔からある音だ。前も鳴っていた。ただ、今は音がすると家の全員が起きる。プジャまで起きる。しばらく黙って天井を見て、何も来ないと分かってから、また寝る。
そのあいだ、わたしはあの10センチの穴のことを考える。
あそこから差した光を、わたしは12人で見た。
同じ光を、見られなかった人が何千人もいる。その数は、もうあまり動かない。動かなくなったことのほうが、わたしには怖い。
捜索が終わっても、探すのが終わるわけではない。
この谷でも、遠い国の夜でも、誰かがまだ探している。
今日も、誰かが川べりを歩いている。
明日は、わたしも行く。
山は、いずれまた鳴る。この山でなくても、どこかの山が鳴る。
次は、わたしが先に気づく。誰かの背中を叩いて、走らせる。
【お断り】
この物語はフィクションです。ラスワ郡、アッパー・トリシュリ1水力発電所、ランタン・リルン、ギロン港などの地名・施設名は実在のものを用いていますが、登場する人物および村の出来事はすべて架空であり、実在の被災者・関係者とは一切関係ありません。
崩落の発生時刻、地震波の規模、ギロン港への7分後の到達、約3時間後の2度目の崩落といった骨格は2026年8月から9月の報道に基づいていますが、発電所現場への到達時間、トンネル内部の描写、待避坑の寸法、坑内の空気や衛生の状況、救助および捜索の細部は創作です。
身元確認については、遺体の写真や所持品の記録・公開、行方不明者の親族からの血液採取、歯や骨を用いたDNA照合、DNA試料を保存したうえでの仮埋葬といった手順が報じられています。また、海外のボランティアが公開された写真から刺青や装身具などの特徴を書き出し、SNSで共有して家族の捜索を手助けしていることも伝えられています。作中の布切れの場面などは創作です。
ネパールの民法典では、行方不明者は原則として12年で死亡とみなされますが、災害や事故の場合は裁判所への申し立てによって死亡を宣告してもらう道があります。一方で、遺体が見つからない限り自治体では死亡の届け出ができず、被災した家族にとって裁判の手続きが大きな負担になっていることが報じられています。作中の役所の説明は、これらをもとにした創作です。
発生から1か月を迎えた2026年9月下旬には、ネパール政府が捜索活動を段階的に縮小し、打ち切りも検討していると報じられました。
死者はネパール側で1454人、中国側で43人、行方不明者はネパール側で4718人、中国側で519人と報じられています(ネパール側は2026年9月26日時点、中国側は同年9月16日時点)。行方不明者の数は集計の見直しによって大きく変わっており、発表元によっても差があります。最新の情報は公的機関の発表をご確認ください。
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